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パニック障害克服・完治のための手法を考え、実践し、公開していきます
パニック障害は必ず治ると言います。それなのに、実際に治るまでの具体的な方法を示したホームページは少な過ぎる様に思えます。
特に薬を減らしたり、やめたりする過程が一番大変なのにも関わらずどこにもその克服の方法が載っていないのは困ったことです。
そこで思いました。「無いなら自分で作ろう」と・・・
リズムについて 5
「リズムについて 1」「リズムについて 2」「リズムについて 3」「リズムについて 4」からの続き

共同体のリズム

パニック障害の原因とは何だろう。僕が思うのは、少なくともその原因の重要な側面の一つとして、リズムの狂いというものがあげられるだろうということだ。それは身体的にも精神的にもそうだ。自律神経という身体のリズムを司る働きが乱れている。精神も常に何かに追われるように息せき切っていて、自分のペースになることがほとんどない。あるいは精神のそういった働きが身体に作用をよぼして自律神経を狂わせているのか・・・・・・いや、精神だ、肉体だなどと、そんなものはどのみちくっきりと分かたれるものではないのかもしれない。どちらも同じものの2つの側面であるに過ぎないのかもしれない。
我々パニック障害の人間には何故、多くの物事が積み重なっていかずに片端からこぼたれてしまうような気がしてしまうのだろうか。それは恐らく、我々生命というものが本質的にリズムの中から力を得ていく存在だからだろう。太古の昔に生命が生まれたように、赤ん坊が日々の繰り返しの中で育っていくように、あるいはクロールを覚えようとする人間が規則正しい練習の繰り返しの中でコツを飲み込んでいくように。であるから、リズムがくるってしまった人間には力が蓄えられる事がないのである。

共同体のリズムというものをよく考える。世の中にはうまくいっている共同体と、そうでない共同体がある。うまくいっている家庭に所属している人たちはそこに所属しているだけでそこから力を得ている。そういう家庭は単に金銭とか能力といった単純な問題だけではない。うまくいくべくしてうまくいっているのである。そしてまた逆も然りだ。同様に、うまくいく会社、うまくいく地域、うまくいく国などもある。それらの共同体は何がうまくいっているのかというとリズムである。
人間はコミュニケーションをする際に相互のリズムに同調が起きているという。一緒に暮らしている2人の女性の間では月経の周期までが同調してくるという。そのようにある共同体を構成する人間たちの間では常に同調が起きていて、その共同体全体で特有のリズムというものが生まれている。うまくいっている家庭などはその『固有のリズム』が良いリズムであるということなのだ。その家庭のメンバー達が努力してその良いリズムを作ったのである(ちなみに我々はよく、体の状態が良かったり、やることがうまくいったりすると『調子が良い』などという。『調子』とは具合という意味のほかに『リズム』という意味を持っている。このことはよく考えてみてもいいことだと思う)。

リズムというのは良かれ悪しかれ伝染してしまうものであるし、ある共同体の構成員などは大概同じようなリズムを刻んで生きているものなのだ。特に、この日本という国の構成員の間というのは、どうも他の国に比べても同調が起こりやすいように感じる。突然全体として軍国主義に傾いていったり、そうかと思えばすぐに「一億総ざんげ」などという。この間、ボクシングの試合で判定が曖昧だったとかでわーっと選手が叩かれた事があったが、あれなんぞはその試合の直前まではその選手は一大人気者であったのが正に手の平を返したようにマスコミやインターネットで散々叩かれている様は少々不気味なほどだった。これなどはこの国の人々の同調しやすさを如実にあらわしたものだろうと思う。であるから、この国では昔からそれほど極端な異端者などは現れないし、だからこそこの国が大規模に問題のある行動をしでかしたとしてもそこには明確な責任者というのは存在しない。みながみな『同調』しているうちにいつの間にかそちらの方向へ転がり込んでいったという事であって、それだから『一億総ざんげ』なのである。その意味で、この国は非常に危うい部分があって、悪い方向へ行き始めると一挙にそちらの方向へなだれ落ちていってしまうことがある。この国がそれによるカタストロフを回避するためにはその構成メンバーたちが皆賢明さを保ち続けるしか方法がない。

しかしながら、僕が思うに現在この国の固有のリズムというのはどこかおかしいことになっている。共同体のリズムというのは構成員みなを支配するものであるから現在のこの国の人間というのは多かれ少なかれどこかリズムが狂わされてしまっているのである。であるから今、この国はその構成員の内にひっきりなしにパニック障害だのうつ病だのの患者を生み出し続けているのだ。この国の危うい要素というのが正に悪い方向に作用しているのが現在という時代なのではないか。

これを変えるにはどのようにしたらよいのか。僕が思うに、一人ひとりが変わるしかないだろう。この国においては一人の天才的なカリスマが指導するという形よりも、多くの普通の人々が努力していくという形の方が改善に向いているように思われる。努力して何を生み出すのか。それは『良いリズム』である。一人の人間の良いリズムはその周りの人間を同調させて良いリズムを呼び起こさせる。個人の良いリズムが、家庭の良いリズムを呼び起こし、家庭の良いリズムが地域の良いリズムを呼び起こす。そのように広がった良いリズムがついには国のリズムを呼び起こしていくのである。それ以外にはこの国のリズムを良くする方法はないであろう。孔子も「修身斉家治国平天下」と言ったというではないか。

僕は人生の意味とは、目標とは何なのかを随分と前から考えてきた。パニック障害になった多くの人がそれによって目標というものを見失い、漂うように生きているだろうと思うし、悲しむべきことだと思う。だが、自分に関して言えば、パニック障害になる前から目標というものが定められなかったのだ。ごく一握りの人間――ありあまった才能を持った人たちは若いころから目標を明確に定めて生きられるものかもしれない。プロ野球選手になれば多くの人に夢と楽しみを与えられるし、富や名声などの欲求を満たすこともできる。だが多くの人々はプロ野球選手にも売れっ子漫画家にもなれない。明確な目標などは持ちようもない。いや、それどころか・・・・・・僕などの場合は考えてしまうのだ。こうやってただ生きているだけで石油を使い、電気を使い、自然を破壊し、・・・・・・とむしろ次世代の人間や他の生命の可能性を奪いながら生きていると。単に生きるというだけのことで生み出してしまうもろもろの悪に釣り合うだけの良いことを生み出すだけでも難しいし、それができる人間など滅多にいないとすら言えるのではないだろうかと。いや、こんな事を考えてしまうからパニック障害になどなるのだと言われれば自分でもそんな気がする。だが、今の社会というのはそういう構造になっていることは確かであるし、その構成員の何%かは僕のようにその事にやましい気持ちを持ってしまうだろう。そして、残りの人についても意識的にはどうあれ、無意識の中に刷り込まれているに違いないのだ。「このように石油を使い、森を破壊する――物理的に言えばエントロピーを増やし続ける――ことによって、我々は次世代の人間や他の生き物の可能性や生命を奪っているかもしれない。その事はもしかしたら悪いことなのではないか・・・・・・」と。こんな時代に僕らができることは何だろう。僕らの人生の意味とは・・・・・・。

だが、リズムという事を考える中で僕は思った。どんな時代であろうとも、人間にできる良いことというのは突き詰めればただ一つしかない。それこそが自分のリズムを良くし、ひいては周りの人間の良いリズムを呼び起こしていくことなのだと。良いリズムの同調がどんどん起これば少しずつ周りの世界が良いリズムを持っていくし、次世代にも良いリズムが伝わっていくだろう。どんな時代であろうとも一人の人間にできることはさほど大きくない。例えば一人の人間が人間全体の二酸化炭素排出を止めるなどということはまず無理で、想像する事すらナンセンスである。だがどんな人間にも自らのリズムを良くしようとこころがけることはできる。そしてそれこそが周囲のリズムを変え、そして社会のリズムを変える事ができる。ひいては社会全体の流れすら変えることができる可能性を持っている。それこそがその個人のできる最も良いおこないにつながっていくのではないだろうかと。

終わり。
# by masaya_nagakura | 2006-10-01 17:03
リズムについて 4
「リズムについて 1」「リズムについて 2」「リズムについて 3」からの続き

■生命とリズム

人間のみならず生き物はその存在の根本的なところに『リズム』というものを持っている、という考え。この考えは生命というものの歴史を考えるとむしろ自然なことのようにも思える。
何しろ生き物というのはそれが生まれてきた太古の昔から今にいたるまでずっと、地球の持ついくつものリズムの中で生きていたからだ。
何万回、何億回と繰り返される夜と昼のリズム、27日に1回地球の周りを回る月の動きのリズム、春夏秋冬、海流の動き、周期的な気圧の変動、潮の満ち干、海から立ち昇った蒸気が雨として落ちる水の循環、その他様々な地球の持つリズムと生き物自体が作り出すこれまた無数のリズム。生命はそれが生まれてこの方、幾億万回と繰り返される無数のリズムの中でその身を永らえてきたのだから。

いや、もしかしたら生命という存在自体が一番初めにリズムのなかから生まれてきたとすら言えるのかもしれない。地球上に生命が偶然生まれる確率はとてつもなく低く、まず有り得ないぐらいの話であるという。生命というのはその存在自体が科学的には一種の奇跡だという。リズムというのがその奇跡の力の源なのかもしれない。太古の海の中で繰り返される無数のリズムを持った働き、その働きの中で生命というものは徐々に己の存在を創り出していったのではあるまいか。それはあたかも母親の胎内の持つ無数のリズムの中で赤ん坊が日々成長していくように――古代の生命の素は繰り返されるリズムの中で少しずつ少しずつ海から養分を蓄えていった。そしていつの時か生命となった。生命とはそうやって始まったのかもしれない。であるから我々生き物は始まりがそうであったようにリズムの中から力を生み出していく存在である。逆にまた、そういう存在こそが生命である、と言えるかもしれないのだ。

と、少し話が飛躍した。
だが生き物にとってリズムの働きが重要であるということ。このことは地球自体が無数のリズムを太古より持ち続けているということからも自然なことのように思えるのである。

続く。
# by masaya_nagakura | 2006-09-13 09:28
リズムについて 3
「リズムについて 1」「リズムについて 2」からの続き

■セロトニンとリズム

ある側面からリズムのことを考えてみるとしよう。パニック障害やうつ病の人は脳内で『セロトニン』という物質が不足しているといわれている。セロトニンが不足しているから元気が無くなるのか、あるいはその逆なのかは分からないが、とにかくこのセロトニンというものが人間の元気の指標となるようである。つまりこれが不足している人間は元気が無い、と言えると思う。
ところでこのセロトニンは(僕が散々調べたところによると)、『リズム運動』によって増えるようである。リズム運動とは何かというと、水泳やウォーキング、縄跳びなどのような繰り返しの運動、リズミカルな運動のことらしい。要はリズムを持った運動である。それをするとセロトニンが増えるらしい。
また、セロトニンは『複式呼吸』によっても増えるらしい。腹式呼吸とはお腹の膨らみの動きを伴った深い呼吸のことである。呼吸のタイミングというのは焦ったり、怒ったり、激しい運動をしたりすると自然に早く浅くなってしまう。それを意識的にゆっくりとした深い『複式呼吸』にしてやると気分が落ち着き、脳内でセロトニンができるということである。

ところで人間の体は自律神経が司っていて、意思と関係なく勝手におこなわれる様々な働きによってその生命が保たれている。心臓の拍動、呼吸、内臓が食べ物を消化する働き、眠くなったり眠りから覚めたりする働きなど。これらの働きはある独自の一定したリズムを持っている。自律神経とは要は身体のリズムを司っている神経なのだと言っていいであろう。あるリズムで心臓が打ち、あるリズムで呼吸がなされ、食べ物を消化し、眠り、起きる。
それらの働きのうち、人間が自分の意思で気軽にそのリズムを調節できるのは呼吸だけなのだ。だが、呼吸のリズムはその他の自律神経が司る働きのリズムと複雑に連動している。例えば心臓の動悸のペースというのは明確に呼吸のペースと連動している。呼吸のペースが早くなれば心臓は早く打つし、ゆっくり呼吸をすれば動悸もそれに伴って遅くなる。その他の体の働きに関しても(心臓のペースほど明確な相関関係を見つけるのは難しいにせよ)、同様に連動して働いていることは間違いがないだろう。(何しろ動悸や呼吸のペースによって代謝のペースが変化するのだから連動しないはずもない)。そのように、呼吸とは人間の自律神経の司る働きの中で、特別な意味のある働きであると言っていいと思う。『腹式呼吸』や『丹田呼吸』などといわれる、いわゆる『呼吸法』というのは、要は呼吸のリズムを調整することによって全身のリズムを司る神経――自律神経を調整してやる方法ということではないだろうか。

セロトニンとはリズム運動によって増え、また呼吸のリズムを整えることによっても増える。どちらもリズムに関係している。セロトニンが元気の指標になるのだとしたら、「元気はリズムが整うことによって生み出される」ということが言えるのではないだろうか。

続く。
# by masaya_nagakura | 2006-09-08 09:14
リズムについて 2
「リズムについて 1」からの続き

■クロールの話

リズムについて、自分の経験の話をしよう。
最近週に4、5回のペースで近所のプールに泳ぎに行っている。通い始めてからもう2ヶ月ぐらいになるだろうか。何で通っているかというとパニック障害を治すためだが、やり始めの頃はそんな理由で続けられるか不安だった。自分で言うのもなんだが、僕は意志がそれほど強い方ではないので、随分と前からスポーツをやり始めては挫折してと繰り返していたのだった。何かこういうものは最終的な目標だけでなしに、常に目前の小さな目標や楽しみがなくては続けることは出来ないと感じていた。だから僕は小さな目標を立てることにした。「クロールを上手に泳げるようになろう」と、決めたのだ。

僕はクロールが苦手だった。全然泳げないというわけではないのだが、とにかく泳いでいると体力の消耗が激しい。50mも泳ぐともうへとへとに疲れてしまってそれ以上続けることが出来なくなってしまう。更にスピードが遅い。無茶苦茶懸命にバタ足をし、猛スピードで手を掻いても、見た目軽々と泳いでいる人にわけなく抜かされてしまうのだ。これが僕には不思議だった。クロールなんてものは見たところ全く簡単な様に思える。足をばたばたさせて手を交互に掻く、時々息継ぎをする、と単にそれだけのように見える。筋力にもそれほどの差があるとは思えない。だが、それならば何故それを同じようにやっているにも関わらず、僕はすぐに疲れ果て、スピードものろいのだろうか。

その疑問の答えは少し考えてみれば明白で、明らかにそこにはコツがあるのだ、と思った。速く、疲れずに泳ぐコツがある筈だ。クロールというのは見た所とても単純な動きで、コツもへったくれもなさそうである(少なくとも僕にはそう思えた)。だが実際は絶対にコツをつかむことが必要であって、それをつかまずにやっている僕のような泳ぎはクロールをやっているつもりであっても実際はそれはクロールではない。全く別物なのだと。そこでそこで僕は毎日プールに通う中でコツをつかむべく特訓をすることにした。上手な人の動きを手本にして、自分とは何が違うのか考え、なるべく真似をするようにした。そのようにして毎日試行錯誤を続け、一週間ぐらい経った頃、突然できるようになった。

何が出来るようになったのかというと、長く泳ぎ続けることが出来るようになったのである。それは本当に突然のことだった。その日、プールに入って泳ぎ始めた瞬間、息継ぎが妙にスムーズに出来ることに気がついたのだった。それで試しに泳いでみると、200mぐらい泳いでほとんど息があがらないことが分かった。そこで僕は長く泳ぎ続けるコツをつかんだのだ、ということが分かったのだった。それ以来僕は1kmや2kmは平気で泳ぐことができる。

それは本当に突然であったし、何の前触れもなかったから軽く感動を覚えたほどだった。不思議なものだ。前日プールから上がる前には僕は確かにコツをつかんではいなかった。だが、この日プールに入った時には僕の体はすでにコツをつかんでいたのだ。してみると、僕の体はプールの外にいるいつの時点でクロールのコツをつかんだのだろうか・・・。

一旦コツをつかむと、クロールという泳ぎ方はとてもうまく出来ていることが分かった。クロールというのは単にバタ足をしながら手を掻き、時々息継ぎをする、というだけのものではない。もっと複雑なのだ。
それはある一定のタイミングで手を掻き、体を傾け、首を傾け、足を動かし、という動きの連続である。また、動かす必要の無い時には筋肉が休息できるようになっている。それぞれの動きは相互に独立したものでなく、全く連動している。例えばバタ足のタイミングにしても手の動きと連動しているし、手は必ず体を傾けながら掻く、というように。更にまたある一定のタイミングで息継ぎを行う。足を少し強く掻いて、体を強めにひねり、首を大きく傾けて水上に出して大きく呼吸をする。その動きもまた、他の動きと全く連動して行われる。そして更には呼吸で補われた酸素がある一定の早さで肺に吸収され…などと細かい動きのことを一つ一つ挙げ始めたらきりがない。いくらでも分けることができるだろう。そう考えるならば、それは何百万という無数の細かい動きの連動なのだ。

そのような複雑な動きをタイミング良く繰り返しおこなう行為を司るものは『リズム』と呼ぶ他ない。それらの動きが正しいリズムでおこなわれるとき、その人の動きは、人が速く、疲れずに水の中を進むためにとても合理的な方法『クロール』で泳いでいると言えるのだろう。そのリズムをつかんでいないものは本人はクロールを泳いでいるつもりでも実際はクロールで泳いでいるとは呼べない。

人間の動きをロボットに真似させようとすると、とても難しいという。単に2本足で「歩く」という行為――人間の動きの中では最も基本的な動きであろうそれをするだけの事が、ロボットにとってはとてつもないことなのだという。人間は(というか生命全般は)、何気なくとてつもない複雑な動きをおこなっている。それを司っている不可思議な力の源泉の一つが『リズム』と呼ばれるものと考えて間違いがないだろう。ウィリアム・コンドンの言葉を借りるなら、「リズムは行動を構成している基本的な側面の一つ」である。

続く。
# by masaya_nagakura | 2006-08-31 09:38
リズムについて 1
■身体のリズム

ちょっと前にインターネットで『オステオパシー』という治療法の存在を知って、興味を持った。これは治療者が患者の体をマッサージしたり、背骨のゆがみを直したりして治療するという点では整体に近いものらしい。ところで僕がいたく感じ入ったのは、その理論である。ちょっと特殊で面白い。詳しくはこちらのホームページに書いてあるので読んで頂きたいが、その理論の中に『身体のリズム』という考え方があった。この『リズム』という言葉が最近僕の中で急速に脚光を浴びつつある。今回はその話をしようと思う。大分長くなるので何度かに分けて書く。
さて、そのオステオパシーなる治療法の理論の中で言われているリズムについての考え方は以下の様なものだ(先のホームページより引用)。
”人間の身体にはいくつものリズムを持った動きがあります。
・呼吸による肺、肋骨の動き
・心臓の拍動
・脳脊髄液を循環させるための動き
・内臓が持つ固有の動き
・その他(筋肉等)の動き
全ての動きが密接に関連して、身体の恒常性(ホメオスターシス)を保とうとしています。ホメオスターシスこそが自然治癒力を発動させるもとでもあるのです。
オステオパシーは身体の歪みを正し、身体の持つリズムと可動性を正常化します。”
この『身体のリズム』が正常化することにより自然治癒力が発動し、病気などがよくなるというのである。

■ル=グウィンの言葉 ~ 文章・コミュニケーションとリズム

この『身体のリズム』は、僕が『オステオパシー』自体について興味を持ったこともあり、少し特別な光彩を放つ考え方として僕の意識の表層にしまわれていたのだった。すると、それから少し経って全く思いがけないところでまたこの『リズム』という考え方に出会った。『ル=グウィン』という作家のエッセー集『ファンタジーと言葉』の中でである。この本で、彼女は2つのエッセーの中にて『リズム』について言及している。1つは小説の書き方をテーマにしたエッセーで『わたしがいちばんよくきかれる質問』、もう1つはコミュニケーションをテーマにしたエッセー『語ることは耳傾けること』の中である。

『わたしが~』では、ヴァージニア・ウルフが友人に送ったという手紙が引用されている。そのまま引用しよう。
”モ・ジュスト(適切な言葉)についてだけど、あなたのおっしゃっているのは間違い。文体って全部リズムなの。一旦リズムをつかんだら間違った言葉なんて使いようがないの。・・・中略・・・ リズムは言葉よりはるかに深いところにある。ある感情が心の中にこの波を作り出すの。それにふさわしい文章を作るよりはるか以前に。”
ル=グウィンはエッセーの中でこれに全面的に賛成し、「作家の仕事とは、言葉とは無関係なこの『波』を認め、追いかけていくことだ、という。追いかけられた波は岸にぶつかり、言葉となり、物語になる」というのである。「物語の源泉についてこれより深いこと、有用なことをわたしは知らない」とル=グウィンは言う。

また、『語ることは~』の中では「コミュニケーションとはリズムの同調によっておこなわれている」と述べている。この中でル=グウィンはまず、以下のように述べている。「人間の体内では心臓の細胞、空腹や食事、消化、排泄、睡眠と覚醒、あるいは季節や月などと連動した長期的な動きなど何百万種類ものリズムの共調が行われている」(オステオパシーの考え方と似たようなことを言っているのが面白い)。そして更に「外の環境との同期が行われている」という。特に他の人間との同期がある。うまくいっている人間関係は必ず同調化が起こっている。母親の乳房は赤ん坊が泣く前に母乳で張ってくる。一緒に暮らしている女性たちは月経の周期が重なっている傾向があるという。
また、ウィリアム・コンドンという人が行った実験を例に挙げている(この『コンドン』とは誰だ、と思ってネットで検索してみるとなんと映画監督である。「ゴッドアンドモンスター」(これは知る人ぞ知る名作)の監督であり、「シカゴ」の脚本家であった)。
”コンドンはある話し手に耳を傾けている人々を撮影した。コンドンの写した映像は、聞き手が話し手のしているのとほとんど同じ微小な唇と顔の動きをほとんど同時に――50分の1秒後にしていることを示している。彼らは同じ拍動に固定されているのだ。「コミュニケーションはダンスのようなもので、多数の捉えがたい微妙な次元にわたる複雑な動きを全員が共有している」とコンドンは言う。”
実に面白い話ではないか。リズム、リズム、リズム。生命は体内で無数の振動を刻んでいる。それがもし、文章を書く際にもコミュニケーションを行う際にも根底にある出来事なのだとしたら、それは恐らく文章やコミュニケーションだけにとどまった話ではないのではないかと思えてくる。それは更に、人間の生きることそのものにも深く食い込んでいる概念なのではないのだろうか。

続く
# by masaya_nagakura | 2006-08-30 09:34
引越し
もうじき引越しをする。
引っ越す先では、何とADSLが繋がっていないという。どんだけ辺鄙なのだ、と驚いたのだが、考えてみればこれはインターネットからしばらく遠ざかれという天のお告げかもしれん、と思ってこの際しばらくインターネットはやめることにした。
しばらくブログも書けないけど、何かすごい良いことがあったりしたら会社のPCから書き込んだりしようと思う。治った、と確信できたりとかね。
最近はまあ、鍼治療とか水泳とか色々やっているのだけど何となくちょっとずつよくなっているような気もする。案外インターネットをやめたらメキメキ回復したりして…。
# by masaya_nagakura | 2006-07-27 21:51 | 日記
試写会
こないだ不在通知が来ていた。アサヒ飲料から郵便が届いていたのだが、不在だったので郵便局で預かります、という事だった。
何のことやら、と思った。別にアサヒ飲料から物を送りつけられるような筋合いはない。アサヒ飲料とうちは一切関係ありません、と思った。それで、郵便局いかなきゃいけなかったのだが気付いたら期日を過ぎてしまってて、まあいいかと放っておいたのだ。

すると家にハガキが届いていた。弟が見て、「お兄ちゃんこれ凄いんじゃないの?」という。

何とゲド戦記の試写会が当たっていたのだ。おお! そういえばアサヒのホームページでそんなもの募集していたから、だめもとで応募していたのだった。「ゲ○戦記」の中に入る言葉は? みたいなやつに。応募してみるものだ。「配達記録郵便で送ったのだが、不在だったのでハガキで送ります」と書いてあった。不在だからって諦められなくて良かった。

ゲド戦記は昔から大好きな小説だったので、今回の映画化は嬉しいやら不安やら。宮崎駿自身が監督しているのであれば安心なのだがその息子となるとどうなるやら。まあつべこべ言わずに見ることにしようか。体調が心配なのだけど、こればっかりは這ってでも行きたい、と思う。
# by masaya_nagakura | 2006-07-06 08:58 | 日記
GABAの実力
今日、風邪気味だったので薬局へ行ってサプリメントのコーナーを覗いていたら「GABA」というのが売っていた。これは脳の神経に作用する物質だそうで、そういえばパニック障害に対して良い、とかいう話をウェブで見た気がしていた。別に「経口摂取しても脳には到達しない」、という記事も読んだ気がしていたのではてどんなものだろう、とは思ったのだが、別に安いもんだし、効かないで元々、「藁をも掴むぜー」とばかりに買って帰ったのだった。

それで飲んでみた。すると…、あれ? なんか不思議と気持ちが安らぐではないか。いや、気持ちとかいうレベルではない。そもそも何やら最近は良く分からない吐き気やら頭のチクチク感やらに悩まされていたのだが、そいつが何とほとんど無くなったのである。

驚いてネットで調べてみた。
まずメイラックスの禁断症状について。Wikipediaによると、メイラックス等のベンゾジアゼピン系抗不安薬はGABAの受容体の作用を亢進させると書いてある。つまり、脳内でGABAの効果を強めるという作用があるということだ。
だが、こちらのページ(抗不安薬の依存性)によるとベンゾジアゼピン系抗不安薬を飲み続けると体がその状態に慣れてしまって「ベンゾジアゼピン受容体の感受性低下などが生じる」とある。つまりGABAが効きづらくなる。そしてその状態で突然中止すると「GABA機能の急激な低下が引き起こされ、生理的にはGABAによって抑制されている脳の機能が亢進して、離脱症状が出現する」というのだ。

更に調べてみた。こちらのページによると「二日酔い」などもGABA機能の抑制が効きづらくなった状態であり、「吐き気や頭痛、振戦といった二日酔いの症状を生じている人を調べてみると、脳内は過剰に興奮した状態にある」というのだ。つまりベンゾジアゼピン系抗不安薬の禁断症状と二日酔いの症状は似通った状態であるということであろう(そして、アル中とも似通っているのである。なんてこった!)。そういえば確かに今の僕の症状というのは二日酔いの症状に似ている。奇妙な感じの頭痛とか、気持ちの悪さとか。
それはメイラックスの離脱症状でGABAの感受機能が低下してたために起こっていたのだろう。だからGABAを飲むことで体内のGABAを増やしてやることによってその症状が無くなったのだろう。

WikipediaのGABAのページによると、冒頭で僕が何となく覚えていたように「血液脳関門を通過しない物質であることがわかっており、体外からGABAを摂取しても、それが神経伝達物質としてそのまま用いられることはない」と書いてある。だが、実際飲むと効果がある。こちらのページでは「最近になって、食べ物によって摂ったギャバも脳へ届くことがようやくわかってきた」と書いてある。どうもこちらの方が正しいのかもしれない。

この結果から、ことによればGABAの服用はメイラックス等の離脱症状対策に有効であるかもしれないということが分かった。だが当然一回飲めばそれで完全に症状が出なくなるというわけではなく、僕の症状も時間が経つにつれてまた出てきた。つまりGABAでメイラックスの禁断症状を抑えるのであれば、依存が治まるまでしばらく飲み続けなければならないということだろう。
そういうわけで今、GABAに副作用がないかどうかとか、GABA自体に依存性がないかどうかなど必死に調べているわけだが今のところ大した副作用は書かれていない。だがこういうものの副作用なんかは分からないからな…。
だからしばらく人柱になって飲み続ける予定。効果が確実にあると確かめられたわけでもないしね。これでうまくメイラックスから離脱出来たら改めてここに書こうと思う。

しかし…、現在の僕はパニック障害そのものに苦しめられているのか、それとも薬の禁断症状によって余計苦しめられているのかどっちともつかないような状況である。少なくともダブルで起きているので余計に大変になっていることは確かだと思う。
この間、製薬会社の明治製菓に問合せてみた。「禁断症状に苦しんでいるのだが、どうしたら良いのか。うまいやめ方はないのか?」という問合せである。そうしたら「強い禁断症状などは無い」などという。「要はパニック障害が治ってなくてそれが現れているだけではないか」というのだ。そんなことを言われたら僕にも返す言葉がない。何によって症状が現れているかなんて僕にはわかりようがないし、証明のしようもない。水掛け論にしかならないからだ。だが今回GABAを摂って症状が治まるところを見ると、やはり禁断症状だったようである。「強い禁断症状など無い」というのが聞いて呆れる。大体「依存から脱却した例はあるのか?」と聞いたら、「脱却した人は問い合わせをしてこないので確認出来ない」などというのだ。なんとも頼りない。その人に言わせれば僕の飲んでいた量(1mg/日)などは「無いも同然で、飲み続けても問題ない程度の量」なのだという。そんなわけはない。飲んでいた頃は物忘れとか随分激しかったものだ。

思うに製薬会社などはそれほど深く考えて薬を作っているわけではない。単に「何らかの症状があったらそれを緩和出来れば良い。安全性に関しては「ネズミに飲ませて死ななければとにかく安全」と考えている程度ではないだろうか。

こちらのページによると、ベンゾジアゼピン系の抗不安薬は依存性があるにも関わらず、「日本は欧米に比べ、この系統の薬の処方頻度が6―20倍も多い。いわゆる精神安定剤として、漫然と使用される例も少なくない」という。つまり医師も大した知識もなく適当に処方を出していたりするということだ。これも恐るべきことのように思われる。

どうも病気や薬について調べれば調べるほど、医療に関しては不信が募るばかりである。
# by masaya_nagakura | 2006-07-02 22:49 | 日記
引越し と ご近所での死
もうじき引越しをしようと思っている。
そして妙な話になるが、そこで父と二人で暮らそうかと思っている。
理由は色々ある。
もちろんパニック障害に関わる理由だ。

一つは自分の未熟ゆえである。
実際、僕は未熟だ。隠しても仕様がないのでぶちまけるが、どうにも今の僕は成熟というものと程遠いところにある。精神の土台というか、基盤のようなものが薄弱なのだ。幼少時のどこかの時点で、踏むべきステップを踏んでこなかったがために、いつまで経ってもその上で行われるべき建築がなされないというような感がある。
何故、それで父と共に暮らすのかというと、父もまた同様に精神の基盤を造り損ねた者であるからだ。どうも僕が直感的に嗅ぎ取ったところによると、その基盤というのは、家族の中でのコミュニケーションから造られるもののようだ。であるから父と僕が二人で暮らす中で構築していこうというのである。父もまた、62歳にして人生を振り返りつつあり、その中で同意の感覚に至ったのであろう。

我々はまた、人生を一から出直そうと思っているのだ。それも一から出直すというのも生半可な意味でなく、正に幼少期から出直すような感覚で事に当たろうと思っている。

限りなく悠長である。
とは僕も思う。そして思考に飛躍がある。それも認める。だがこれは僕が30年近く生きてきて得られた経験の総決算の果てにある結論である。
どうも僕の心の抱える問題というのは自分で想像していたよりも遥かに大きいもののようだ。単純に絆創膏を貼ればそこが治るというようなものとわけが違うようだ。それ故に人生のある時点から…恐らく思春期の辺りであろう、僕の心は成長を止めてしまったように思われる。そして錆びた鉄板の上にいくら塗装をしても錆びとともに剥がれ落ちてしまうように、その上でいくら心を育てようとしてもそれはまたすぐに剥がれ落ちてしまうのである。根だ、根を育てねば…、根が腐っていてはその上に育った樹木はどの道いずれ枯れてしまうのだ。だから僕らは根を育てる事にした。悠長な様だが、それしか道がない、と思った。それしか、この人生を意味のあるものに出来る道がない。だが、人生にひとひらでも意味を持たせることが出来るならばそれは素晴らしいことではないか。
朝ニ道ヲ聞カバ夕ベニ死スモ可ナリ。





さっき、母から悲しい話を聞いた。近所に住む人が42歳の若さで無くなったという。3人の子供を残して。何故死んだのか、近所の人に母が聞いてもどうも話が要領を得ない、という。だがとある人に尋ねたら「どうやら自殺らしい」という話であった。「みな、自殺だということには触れたくないのではないか…?」と父は言う。
その人は町役場の職員だったという。我が町は無茶苦茶な赤字を抱えていて財政破綻寸前らしい。そこで受ける職員のプレッシャーたるや尋常でないものかもしれない。
「自殺だということに触れたくない」という話を聞いて、漠と思ったことがある。よく、いじめなどで子供が自殺したりするとその学校の校長や担任などがインタビューで「まったく気付きませんでした」などという。そんな構図に似ているな、と。
もちろんまったく気付かないはずはないだろう、とも思うが、一例一例のいじめなどは巧妙に隠されれば分からないかもしれない。だが、いじめなどの問題は実際は単なるその一例一例だけの問題ではない。そこを引き起こす雰囲気、エネルギーというものがある。本当に分かるべきはそこで、必ず人間に感じられる問題はそこなのだ。それを引き起こしている原因は過度な競争などにより極度に緊張した場の雰囲気そのものだ。それが行き場をなくしていじめなどの姿をとって現れるのだ。だから本当に問題とすべきはその雰囲気自体であって、それが解消しなければならないものなのだ。だがそこは取りざたされない。教師などはみな分かっていないのか、それとも分かっていて分からないふりをしているだけなのか…。彼らは保身で身をすくみ上がらせて、「意味のあることはしてはいけない。出来るわけがない」と常に頭の片隅でぶつぶつとつぶやき続けているのである。
今回の役場職員の自殺の件はそれに似ている、と感じた。僕は役場の様子を知っているわけではない。だが、彼らの感じているプレッシャーや職場の雰囲気は目に見えるような気がする。そこは暗く冷たい雰囲気だ。いつからそうなってしまったのか分からない、いつの間にかそうなってしまった、と彼らは思っている。それがいじめなどの直接的な形をとって現れているかは分からないが(多分、現れていると思うが)、少なくとも極度に緊張した雰囲気である。彼らは自分の置かれている状況をどうしようもなく不快には感じながらも「意味のあることはしてはいけない。出来るわけがない」と、心につぶやき続けているのだ。何となれば彼らは意味のある事など今までほとんどしてこなかったし、実際にしてはならないと教えられ続けてきたのだから。
少し前までこの不安定な世の中で最も安定的な職種であるとされてきた公務員は、現在この社会の不安定を濃縮した地獄のような場所にいる。

今の日本にある、標準的なスタイルというもの。標準的な暮らし、標準的な仕事の仕方、標準的なものの考え方。公務員にしても、サラリーマンにしても、主婦にしても、どうも思うにどれもこれもが、みなどこか【とても本質的なところで】【決定的に】間違ってしまっているのではないだろうか。近頃そんな疑念が湧くのだ。日本人の考え方は隣百姓である、などという。隣の畑の様子を見て、それに似通っていれば安心するというのだ。だがその隣百姓の求める標準的なスタイルなるものが、決定的に間違っているとなればどうなのだ。誰もが疑問を抱かず、安心の内にどこかへ落ち込んでいるのではないか…。

冒頭で、「精神の土台」と書いた。僕と父にそれが出来ていない、と。だから未成熟なのだと。
だが、今、この国でどれほどの人間がそれが出来ているのだろう。この国の総合的な意識自体に極度に未成熟なものがあって、僕や父の意識はそれを反映しているだけに過ぎないのではないか。そんな風に思うのだ。
精神の土台とは内的なものだ。個人の精神の土台が家庭で作られる様に。また国家の精神の土台はその国の内奥で醸造される。
中世ヨーロッパなどは暗黒時代などと呼ばれて否定されたりもするが、あの時代、あのキリスト教と共にあった千数百年もの内向的な歴史が無ければ現在のヨーロッパは無かったであろう。ルネッサンスや産業革命は中世という精神的土壌に咲いた花に過ぎない、と僕は思う。だからそれは、本当は中世の(暗くて古い)文化を否定することによって跡形もなく消え去ってしまうのだ。
我が国には少なくとも日露戦争前後辺りまではその精神の土台があったのではないかと思う。それは長年に渡りこの日本の国内で醸造されてきたものである。だがその後過去を否定する流れの中でどこかへ霧散消滅し、我々の国家の精神には今や土台がない。精神の土台がない国には未来がない。我々の国は今やどんな形の夢を抱けるのだろう。昔抱いた夢は遠くなりにけり、今やその残骸の中で生きているに過ぎないのではないか…。

だから僕は、一旦「標準」のスタイルや考えから離れてみようと思う。この国はどこかの時点で、一番標準的なものこそ一番おかしなものになってしまった様であるから。
# by masaya_nagakura | 2006-06-27 22:46
コミュニケーションと駆け引き
さっき、ふと思った。
「人間関係に駆け引きというのは必要である」と。
齢28にしてやっと気付いたのであった。

何を「当たり前のことを…」、と思う方もおられるかもしれない。
あるいは「つまらないことを…」と思う人もいるかもしれない。僕は昔からずっと人間関係における駆け引きなどというものは馬鹿げた、つまらないものだと思っていた。そういうもののないところにしか本当のコミュニケーションというものは成り立たないと思っていた。そして駆け引きが存在する偽物のコミュニケーションからは何物も生まれてこないし、それはこの世にある価値のないくだらないものだと軽べつしていたのだった(これは反省せねばならないのだけど、僕はいつも過度に潔癖過ぎるきらいがある。それゆえに逆に身動きが取れなくなるのである)。

だが思ったのだ。駆け引きは必要だと。いや、駆け引きと呼ぶべきものなのかどうか分からない。言ってみればバランス感覚のようなものかもしれない。だが、それは一般的に駆け引きと呼ばれるものと酷似していることは確かだと思う。何故必要なのか。それは、先程いった本当のコミュニケーションなるものが、お互い対等な立場においてのみ成り立つからだろう、と思う。

そんなことが分かったのは仕事をしていてある取引先との関係でごちゃごちゃしていたときだった。なかなか油断のならない会社で、非常に打算的というか、打算に基づいた近々の未来に向かって後先構わず猛進するような行動をしばしば取る。それをそのまま放置しておくと我々のためにはもちろんならないし、将来的には恐らく彼らのためにもならない。だからそれに対してうちもある種の自己防衛というか、時々意図的に舵取りのようなことをしなければならない。そしてこちらの立場は常に相手に引けを取らない位置に維持しておかねばならない。そのために電話をかけるタイミングや、そこでの言葉も選んで話す必要がある。

それが僕の嫌いな駆け引きというやつだ。「駆け引きのあるコミュニケーションからは何も生まれない」とさっきいった僕の言葉はやはり正しいと思っている。だがもしそれをやらなければどうなるのか。それこそどうにもならない。相手の打算的な思惑に我々の未来が乗っかってしまい、我々はじきに潰れるだろう。そしていずれはその計画自体の浅薄さによってその会社も潰れないにしても痛手を負うだろう。つまり最悪の事態を招く。要は打算的な思考によってアクセスしてくる相手に対しては、取りうる手段はそれほど多く残されていないのだ。良い未来というのもそれほど多くない。駆け引きには駆け引きで応じ、ともかく対等な立場を保ち続ける。そのことによって少なくとも自分は相手の思惑通りにはならない状態を保つ。それが出来うる最善の手段なのではないだろうか。

そして…、ここからが重要なのだが、対等の立場をずっと続けているうちにいつか相手の気がゆるんだときなどに、ふっと本当のコミュニケーションが取れるかもしれない。それが最も望ましい事態であるはずである。
コミュニケーションとは対等の立場が基盤にあるときにのみ許されるものであり、それこそが最も重要なカギなのだ。それは逆に言えば、その対等な立場が持続し続ける限り、いつでもコミュニケーションが可能な状態にあるということである。どんな人間も四六時中防御的で打算的であるわけにもいかないであろう。どこかの時点で分かり合えるときがあるのかもしれない。

コミュニケーションが対等な立場を必要とするというのであれば、そこで必要となるのはお互いの立場というものの微妙な差異を感じ分けるバランス感覚だろう。コミュニケーションの得意なものとはそのバランスのずれを巧みに調整して、常にコミュニケーションの出来る状態に維持出来る人間のことなのではないだろうか。

元々立場が上の人間が、相手に合わせてやれば良いのに、と僕はいつも思っていた。恐らくそれが理想の形なのだろう。子供に目線を合わせてくれる大人のように。そういう存在は人間の中に一際眩く輝く宝石のように美しく思える。そういう大人により子供が一気に成長させられる様に、世の中はそういう人間の働きで大きく回っているのだと思う。僕はそういう人だらけの世界を夢想して、「駆け引きは嫌いだ」と考えていたのだろう。だが、問題は実際はそんな人間ばかりではない、ということであった。いや違う。そんな人間など滅多にいないのだ。そんなことは分かりきっていることだ。僕は何をバカなことを期待していたものだ。だから多少の駆け引き…というかバランスの調節をする。それで人は、ときどきは人とコミュニケーションがとれるようになる。と、そういうわけではないか。

そう思えば世は、それはそれで面白いものに思えてくる。
# by masaya_nagakura | 2006-06-19 20:10 | 日記
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